月1ペースで希〇念慮が浮かんでくる話

スポンサーリンク

こんにちは、ブログをご覧いただきありがとうございます。

Miryです。

【注意】
①タイトルにもあるようなお話です。ちょっと重い話なのでお気をつけください。

②このブログは「音楽系雑記」ブログなので、音楽と関係ない記事もあります。
この記事も音楽系のコンテンツとは一切関係ない記事なので、音楽系コンテンツを見たくて訪問してくださった方は、この記事は読まない方がいいかもしれません。

③この記事では解決策を提示するわけではありません(そんなのあったら苦労しないしね)。

はい、タイトルの通りです。

こんなこと、なかなか知人や身内に話せるもんでもないし、話したことはないんですけど…。

フォロワーさんのツイートに心打たれたので、発信してみようかなと思いました。

私自身誰かのネガティブな話を見聞きして、「私だけじゃないんだ」って安心することもあったので、私のネガティブな話も誰かの助けになればなと。

(たまーに、以前の「人間関係ブログ」も読まれてるようなので。)



事情により具体的なエピソードは話せませんが、現在進行形でまた残っている、「希〇念慮」のお話をしていきたいと思います。
(Googleさんにアカウント止められたりするかなと思って、伏字にしてあります。)

1つの「小さな引っかかり」からたくさんの「嫌なこと」を想像しがち

昔からそうなんですけど、些細なことから色々気にしちゃう性格なんです。

しかも悪い方向に。


「そういう服着てるの珍しいね。」と言われたら、「え、遠回しに似合わないって言われてる?」と一瞬でも感じてしまいます。

もちろん理性では
「いやいや、この人はそんなこと言う人じゃないし。普段と違う雰囲気の服だったからそう言っただけだよね。うん。」
と思えるんですけどね。

そうやって思い直しても、ネガティブな感情が尾を引くんです。


ただでさえそうやって気にしちゃうタイプなわけですから、その「些細なこと」が本当に「ちょっと嫌なこと」だった場合、かなり、それはもうかなり色々ネガティブなことを考えてしまいます。


その「ちょっと嫌なこと」が1つや2つだったら、「意識的に気にしない」ようにすることでどうにか持ち直すのですが、もっとたくさん重なった場合に出てくるのが「希〇念慮」。

こっそり大泣きする期間が、大体月1ペースで2,3日発生するんです。

「〇にたい」は、必ずしも「苦しくてたまらない」とは限らない

実を言うと、希〇念慮自体は子供のころからありました。

子供のころはいじめに遭ってたので、
「嫌なことがたくさんあったから、この苦しみを続けたくないから〇にたい。」
だったのですが、これなら道理も通りますよね。

子供のころは生きる世界が「学校」か「家」だったので、逃げ場がほぼ無かったため、苦しみから逃げるにはもうこの世から消えるしかないと思ってたんです。


でも、大人になった今の希〇念慮は、それとはまた違うタイプなんです。

ありがたいことに、子供のころと違っていじめには遭っていません。

また、今は「家庭」、「仕事」、「実家」、「友人」、「Twitter」など、色々な逃げ場がある状態です。


なのにそれでも、希〇念慮が出てきてしまうんです。

その時の心持としては、

嫌なこと自体はよくある話だし、幸せな瞬間もあるんだけど、それよりも「複数の嫌なことに立ち向かうことによる、生きる辛さ」の方が勝っちゃう。
(詳しいことは言えないものの、今回の「嫌なこと」は、逃げたらもっと悪い方向に行くので、耐えるにせよ行動を起こすにせよ、立ち向かわないといけない。)

そうなると、生きていたくないわけで。
この先生きていく(=嫌なことたちに立ち向かう)のが辛いから、これから起こる幸せなことも結局「だから何?」に行き着いちゃう。

だから、生きる意味が分からなくなる。
つまりは死にたいんだけど、死にに行く勇気もないから余計に苦しい。


極端な思考になってしまってるのは重々承知なんですけど、「生きるって色々あって大変だよね~。」にめちゃくちゃフォーカスを当ててしまうんです。

「生きるって色々あるけど楽しいよね。」の方じゃなくて。


共感してくれる人いるかなあ…。


「〇にたい」とか「生きるのやめたい」は絶対悪なのか?

まあ、かなりのケースで否定される「絶対悪」ですよね、きっと。

でも、私は「相対悪」だと思う。

「痛い」とか「辛い」とかの、自身に起こるデメリットは置いといて。

「周りが悲しむよ」とか「生きたくても生きられない人が」っていうのもいったん置いといて。


そりゃあ、そういうデメリットも考慮したら、「悪いこと」に分類されると思うけど、色々あって考えを巡らせた結果、選んだ1つの道なんだから、「どんなことがあってもダメ!」っていうのは違うんじゃないかなと。

仏教が幼少期から身近にあったから、そういう考えになったのかも。
(サンタさんも来てたし、普通に肉魚食べ続けてるけど。)

で、「〇にたい」と思うことが悪いとは限らない、っていう考え方が根底にあるんで、無理に治したり鎮めたりしようという気も起きないんです。

同時に、「そこまで悟ってるなら、希〇念慮を抱いたとしてもそんなに苦しまないんじゃないの?」と思われそうですが、そう簡単にもいかないんです。


苦しみが尾を引く理由

普通なら、「〇にたい」と思うようになったら、「このままじゃ良くないな、精神科を受診しよう。」とか、何らかの解決策を考えると思うのです。

それって、「良くないな」という自覚があるからですよね。

「〇にたいなんて思わずに普通に生きていこう」という、いわば目指すべきゴールがあるからこその行動ですよね。



私の場合、それとはちょっと違っていて。

そういう時は
「もう人生どうでもいいや。」
→「でも自分から〇ぬのは勇気出ない。」
→「ただその場合、幸せなこともどうでも良くなっちゃう。」
→「幸せになるために頑張ろ」の方向に向かわない。
→「生きる意味とは?」と疑問に思い、分からなくなる。

ので、ゴールが見えないわけです。

だから苦しむんです。


願わくば、このまま寝て、そのまま起きることがなければ一番いいなあって。

それでも生きてる理由

ずばり、病み病みになってる時に、

「ぜーんぶどうでもいいや!」

って、放り投げて消えてしまうほどの勇気はないからです。


だって、仕事もあらゆる人間関係も放り投げて身を隠したら、きっと苦しんで〇ぬか、心身ともにボロボロになりながら生ける屍になっちゃうと思います。

それはそれで痛いし苦しいので、めっちゃ病んでても仕事はするし、人間関係もいつも通り継続させます。

ご飯も作るし食べるし、お風呂も入ります。

何なら、Twitterだってするし、副業だってします。

毎日塗っている乾燥防止の皮膚薬も欠かさず塗ります。

習慣化してることは一通りできてしまうんですよね。



いつも通りに過ごすしかないし、いつも通りに過ごすことが望ましいのも「頭では」分かってるから、いつも通りに過ごすんです。

そうすると希〇念慮が少しずつ減ってきて、ゴロゴロしてYouTubeを漁ったり、毎週楽しみにしてるドラマを見る余裕が出てくるんです。


こうやって文字に起こしてみると、「大したことないじゃん」って感じなんですが、ほんとにそうなんです。

病んだきっかけ自体は些細なことだから。



そんなことでも、色々考えが広がっていくと、希〇念慮を抱くほど病むもんなんですね。

少なくとも私は。



これがもう、「些細な嫌なこと」とかではなくて、ほんとに絶望的な出来事で病んでたら、何も出来ないと思うし、実際そういう時もありました。



でも、そんなわけでもない、「些細な嫌なこと」が重なった結果、希〇念慮が浮かんでくるんです。

で、上にも書いた通り、 「〇にたい」と思うことを無理に治したり鎮めたりしようという気も起きないし、ゴールが見えないもんだから、病みまくるわけです。

それでも日常生活を送り続けることで、何となく希〇念慮が薄れていくんです。


なので要は、「超ネガティブな気持ちになっても、気にせずに頑張って日常生活を送っていれば、時間が解決してくれる。」ものなんですよ。

でも、その病んでる間に「もうこのまま消えたいな(大泣き)」とか、「Aを選べばaができなくなって困るし、Bを選べばbもしないといけないからそれもそれで大変だし(大泣き)」とか、「このまま生きていくのも辛いけど、〇ぬのも辛いな(大泣き)」とかいうことになっているんです。


きっとしばらくは、「些細な嫌なこと」を乗り越えつつ、たまに病みながらも、普通に生きていくと思います。

楽しいことも沢山あるでしょう。

でもそのうち、「生きる意味、無くない?」の思考が、「自分で自分を〇なせる痛みや苦しみへの恐怖」を上回ったら、どうなるか分からないですね。

まあ、それもそれで私の選ぶ道ってことで。


おわり。

コメント

タイトルとURLをコピーしました